子どもの頃、知り合いのおじさんで「空のたまご」をくれる人がいた。「はい、たまごあげる」と言って渡されると凄く軽いのである。この人は手品師かと思った。たまごの殻を割った形跡がないのに、中身が空っぽなのだ。体力増強のために毎日生たまごを飲んでいて、殻を割らずにおいてプレゼントすると子どもが喜ぶので一挙両得「わーっはっは」なのだそうだ。私は夏休みの工作の宿題に活用させてもらうために、やり方も教えてもらった。太めの縫い針で1カ所小さな穴を空け、針を奥まで入れてグリグリ回して黄身と白身を混ぜ、チューっと吸っちゃうのだそうだ。結構うまく行くのだ、これが。あとは白い絵の具とご飯粒を混ぜたもの(コメダインと言っていた)で針穴を塞いで乾かせば出来上がりである。
生たまごを飲むなどと言うとびっくりするかもしれないが、私が小学生の頃のたまごは今のとぜーんぜん違っていた。黄身の固さ、白身の粘り具合、色合い、そして風味、どれをとっても今スーパーなどで売っているたまごは遠く及ばない。その頃はまだまだ、病気見舞いに生たまごを手土産にする習慣も残っていた。病人に飲ませると力が沸いてくるくらい栄養があると言われていたのだ。鶏肉屋さんの店頭にはモミ殻の入った箱が置かれ、一つ一つ丁寧にたまごが並べられていた。客は一つ一つ手にとって店頭の裸電球に透かして見たりして、吟味しながらザルに入れて購入するのだ。これが「まる子」が生まれた頃、大都会東京でさえ当たり前に見られた光景だったのだ。社会なんて、あっという間に、おかしくなってしまうのである。
『特製ちびまる子』第2巻第7章では、まるちゃんは個室とベッドが欲しくてたまらなくなる。生家を拝見すると立派な家だと思うのだが、三世代同居で姉妹がいたりすると叶わぬ
夢だったのかもしれない。
小学生の頃、私は二段ベッドに憧れていた。しかも上段で寝る事を。あのはしごを登り降りする時、大好きだった小沢さとる氏の潜水艦をテーマにした漫画の主人公になれるような気がしていたのだ。一人っ子なんかじゃなく弟でもいたら良かったのに(まる子の逆である)と何度思ったことか。その願いが清水に戻った途端あっけなく実現してしまったのである。店舗兼用住宅の内装をする時、三畳の私の部屋を有効活用するために大工さんがはしごで昇降するベッドを作りつけてくれたのである。下は洋服箪笥が入るようになっており、誠に合理的にできていた。結局、中学・高校の6年間をそのベッドで寝ていた。後年、立ち退きになったので、私が寝ていた場所は今の清水市役所2階あたりになっているはずである。

現在の私はベッド派ではなく、断然布団派である。日中太陽に干した布団の日向臭さ、糊の効いたシーツの爽快感、寝苦しい夜、畳の上まで転がり出る開放感。そして毎朝床を上げる時の潔さ。どれをとっても布団の方が優れていると思うのだ。
死ぬ時ぐらい病院のベッドの上でなく、自宅に帰って畳の上に敷いた布団の上で死にたいと私は思ったりするのだが、今の若者が年をとると自宅に帰って自分のベッドの上で死にたいと思うのかもしれない。経済企画庁の「主要耐久消費財の普及状況調査」によると、平成9年度は56.0%、平成10年度は56.7%の家庭にベッドが普及しているのだそうだ。そのうち布団の無い家庭などが圧倒的に多くなるのかもしれない。
「ベッド派」か「布団派」かなんて昔の人から見れば贅沢過ぎる悩みなんだろうなぁと、我が家の70歳過ぎの親たちに質問したら仰天した。
私の母親が、
「私はハンモックがいい、子どもの頃からの夢だったから」
などと言い出したのだ。「え〜っ、ハ、ハ、ハンモック、そりゃあちょつと変わりすぎていないか?」と私たち夫婦は言い返したのだが、大正生まれの義父が、
「ハンモックなら家にあったよ。たしか隣の家にもあった」
その連れ合いの義母が、
「娘時代軍艦を見学に行くと兵隊がハンモックで寝ていて羨ましかった」
などと言い出し、我が家では「ハンモック派」が過半数を占めてしまった。
確かに大正から大戦前辺りの日本は想像以上にハイカラだったと言うが、私たちのような高度成長時代を謳歌して育った世代も夢想だにしなかった、高齢の「ハンモック派」出現に、年寄り侮り難しの思いを強くするのであった。
(続くのだ)