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物事にはすべて
発端があるのだ
前書きにかえて

物事にはすべて
水没するくらい
深〜い歴史があるの


子供には子供の
けもの道があるのだ


だがしかし駄菓子菓子

ラーメン食べる
(Lamentable)
とは悲しいことよ


限りなく東名に近い
たんぼ


七夕豪雨
清水市を襲う


シーチキンは
きちんと清水発


ヤァ!ヤァ!ヤァ!
UHFがやって来た!


プリンの気持ち

テトラの秘密

悲しき熱帯魚

ベッドでたまごは
吸わないで


哀愁の町に
雪が降るのだ


ケンカだ!
ケンカだ!

カッサーは
サッカーを
知らない!


男と女の
別れ道


美しい心
は何処へ


おじいちゃん
の財布


お金持ちの秘密


1974年(昭和49年)7月7日、台風8号に刺激された梅雨前線が静岡県下に記録的な大雨を降らせ、氾濫した巴川が清水市に甚大な被害をもたらすことになった。歴史に名を残す七夕豪雨である。歴史に名を残すといっても、清水市でこの災害をインターネット上で記録している人は少ないらしく、検索しても「七夕豪雨静岡市を襲う」というページがヒットする程度である。かろうじて、私のサイトにもリンクさせていただいている玉 川楼さんが「清水こぼればなし」に記録されているのが数少ない情報である。清水市のサイトでもこの歴史はこぼれてしまったらしい。そんな訳で本章のタイトルは「七夕豪雨清水市を襲う」とした。これで静岡市と並んで清水市の歴史の1ページがヒットすることになるだろう。

さて『特製ちびまる子ちゃん』第1巻第6章に、この七夕豪雨が登場する。今読み返してみると、災害時の人間模様が「さくら家」という市井の人々の目を通 して描かれており、災害の様子伝える貴重な資料になっていると思う。この年、まる子は小学校3年生、私は清水の高校から東京の大学へ…と、書きたいところだが、まる子は『サザエさん』方式で3年生のまま、私は高校卒業後1年浪人ということで、その辺の記述がいい加減になる。ともかく、この年に私は大学生として東京暮らしをしていたのだ。よって、清水でこの災害を体験していない。

大学入学当時私は「娯楽は人間を堕落させる」という強い意思の下、テレビの無い学生生活をしていた。立派な大学生を目指した時期もあったのだ。ところが後に、上京した母親が激怒し「私が見たいのよ」とテレビを持ち込んでしまったのだ。ひどい母親である。というわけで、清水市が大洪水に見舞われているニュースなど知る由もなかったのである。

その第一報は思いがけないところからもたらされた。学生時代の生活費は、清水市内にある東海銀行に入金してもらい、カードで引き出すようにしていたのだが、池袋東口支店で引き出そうとしたら現金自動預け払い機が拒絶のメッセージを出して受け付けてくれないのである。不審に思って行員に調べてもらうと、清水支店が洪水による冠水のため業務不能になっているという。そんなわけで、その日私はなけなしの金で買った豆腐とモヤシで飢えを凌ぎながら、故郷の人々の無事を祈ることになったのである。

これから記述する話は、後に「母みつよ」が私に語った災害時の模様を聞き書きしたものである。聞き間違いや、多少の誇張が混じっているかもしれないがご容赦願いたい。

7月7日、清水市の空は日中なのに夜のように暗くなった。と、思ったら土砂降りとなり、その様子は空からバケツの水をひっくりかえしたようだったという。「父ヒロシ」も同様のことを漫画の中で言っているのが可笑しい。夜半になっても雨の勢いは収まらず、就寝した後も妙にサイレンや半鐘の音が聞こえる夜だと思ったという。この辺の模様は『特製ちびまる子ちゃん』にも詳しく描かれている。

翌朝目ざめた「母みつよ」がゴミ出しのために清水市役所の駐車場の方に寝ぼけまなこで出て行くと、毛布に身をくるんだ人々が大勢集まっている。なんだ、なんだ、なんだ、と聞いてみると巴川が氾濫し市内が大洪水になっているという。ここで注目したいのは、市内が大洪水になっているのに、当時旭町で飲食店を営んでいた「母みつよ」は全く被害を被っていないこと。しかも清水市でもとびきり低い土地にある市役所の一角が避難民の集まる場所になっていたりするすることだ。なのに、目と鼻の先の東海銀行は前述のありさまである。思うに、これは市役所のほんの一角がいちはやく下水道を完備していたからだろう。下水道の整備がいかに水害に対して有効かがわかる。また、「さくら家」のあった入江町はわずかに標高が高かったことで難を逃れていることが『特製ちびまる子ちゃん』でわかる。

ここで、「母みつよ」は清水市大内の巴川沿いに住む母親と弟夫婦を思い浮かべたという。その場所は私が子どもの頃から台風のたびに大水が出ていた場所なのである。早速救援に向かおうと出かけたところ市内は海のようだったという。『特製ちびまる子ちゃん』見開きの大パノラマ参照。

「母みつよ」の救援ルートだが、高橋本通りを通って北街道を静岡方面 に西進するというものだった。高橋本通りは若干土地が高いので通れるのではないかと予測したのだというが、昔の人の知識というのはこういう時に役に立つのだ。大内新田で被災した弟の無事を確認した後、清水市天王まで進むとそこから先のルートは完全水没。辺りを見回すと自衛隊の救助ボートがあったので、この先にたんぼの中の一軒家があり、取り残されている可能性が高い、案内するから乗せてくれと頼み込んだのだそうだ。ここから「母みつよ」の冒険談はぐっとテンションが上がるのだ。

自衛隊員といっても、年中ボートを漕いでいるわけではないので、何とも頼りない。「母みつよ」はといえば、幼少時伊豆で実家が副業として海の家を営んでおり、貸しボートもやっていたのだから舟の漕ぎ方はお手の物である。「左、漕ぎ方やめ、右もっと強く漕いで」と指図するうちに、班長らしき人が「この人の言う通 り漕ぎなさい」と命じ、ボートは無事巴川河畔の祖母の家に到着したのだという。この辺になると講談調になっていたりするのだ。

水害の時、なんといっても人名を救うのは2階立て以上の住宅である。「母みつよ」が到着してみると、家族は全員2階に非難していて無事。私の年少の従弟は大のテレビ好きなので、後日おとな数人がかりで降ろさなければならない巨大家具調テレビを一人で2階まで抱えて駆け上がったそうで、今でもお笑いぐさになっていたりする。上流の製材所から流出したらしい巨大な原木が数本流れ着いて、家に突き当たって漂っており、異様な光景だったという。

この七夕豪雨により、静岡・清水両市ではたくさんの死者も出たそうである。ご冥福を祈りたい。

私にとって残念なのは、この水害で大打撃を受けた清水市内の路面 電車が、復旧することなく廃止になったことである。東京の路面電車廃止のセレモニーなどを見ているので、清水の路面 電車はお別れ会をしてもらえたのだろうかと悲しくなる。そんなわけで1974年は私にとって二重に忘れられない年なのだ。

(続くのだ)

 

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