清水と言えば「清水の次郎長」。次郎長は1820年元旦生まれだそうで(もちろん旧暦だけど)、その目出度さにあやかって、旅ゆけば駿河の国に茶の香り〜と、広沢虎造の名調子にのってスタートすることにしよう。
この『東海遊侠伝』は、大正期に三代目神田伯山の講談、昭和に入って二代目広沢虎造の浪花節として、清水の次郎長の名を全国に知らしめたわけだが、この作者天田愚庵というのは実は次郎長の養子なのである。天田愚庵、幼名久五郎は1854年、陸奥国磐城平藩士の子として生まれ15歳で戊辰戦争に参加している。その後台湾に渡ったり、西南の役に参加したり、岩倉具視暗殺を画策したりと破天荒な生き方をしていたのだが、二十七歳の時、山岡鉄舟の口利きで清水の次郎長(当時六十一歳)の養子になったのだそうな。
そのおとっつぁん次郎長が六十五歳の時、博徒狩りに会って監獄にぶち込まれた際、助命嘆願書として二ヶ月かけて書き上げ、出版したのが『東海遊侠伝』なのだ。巴川沿いにある老舗割烹旅館玉
川楼のご主人府川さんによると、かつて栄寿座という映画館(今はもう無い。私は行ったことがあるけどまる子はどうだろう)で演じられていた講談『東海遊侠伝』(神田伯山だったのだろうか)が、当時巴川製紙で働いていた山田信一青年を感動せしめ、彼は一念発起して浪曲家となり次郎長の名を高めることになった。この人こそ二代目広沢虎造(1899−1964)なのだそうだ。

『東海遊侠伝』は子どもの頃から大好きなのだが(浪曲家になろうと思ったことはないが上手いぞ)、注意して聞いていると「稚児橋」という橋の名が登場する。旧東海道江尻宿(清水と言うのは後の地名)、今の清水銀座を駿府方向に進み、魚町稲荷神社(1578年、武田の武将穴山梅雪が創建)にぶつかるところを旧東海道に沿って左折すると巴川に行き当たる。ここに慶長12年(1607)に架けられ、昭和40年代、まる子が幼稚園に通
うために毎日渡ることになる橋が稚児橋なのだ。この橋を渡り緩やかに登りながら150メートルほど進むと四つ辻がある。この150メートルほどの間にちびまる子ちゃんおなじみのキャラクターが大勢住んでいた。この四つ辻は、三つ辻のように思われがちで、残る1本の細道が重要な道だったりするのだが、こちらは後述。しかし清水市にはこの交差点の信号システムを見直してもらいたいぞ(帰省の度に事故を起こしそうになるのだ)。まっすぐ進むと久能街道。右方向が旧東海道である。旧東海道を進むと左に創業元禄八年、徳川十五代将軍慶喜も大好きだった(もっくんはどうかな?)という追分羊羹がある。当然私は慶喜君級の愛好者である。
旧東海道には進まず久能街道を25メートルほど進んだ左側がちびまる子ちゃんの生家の青果
屋である。そしてここから大股で178歩ほど歩いたところ、久能街道を120歩くらい歩き左の渋谷酒店前の小路を右折して58歩ほど歩いたところに私の生家があるのである。久能街道を右折せず真っ直ぐ100メートルほど進むと静岡鉄道を跨ぐ跨線橋があり、そこが入江岡駅、渡る手前右側の大楠がさくらももこが根元で煙草を一服した(『富士山』創刊号、98頁参照)こくぞうさんの御神木なのである。
というわけで、この入江町界隈はなかなか歴史的に由緒ある場所なのだと得意顔になりたいところだが、時計の針を4000年ほど逆転すると(これは大変な作業なのだ)、ありゃりゃ、一帯すべて海中に没してしまう。かつて清水市を襲った七夕豪雨でまる子が通
った入江小学校が冠水したことでも土地の低さがわかろうというものだ。邪馬台国から平家滅亡ぐらいまでの古代、東海道ははるか上流、今の能島辺りを通
っていたのだ。ということで古代以前の歴史は地質学的にしか存在しないのだ。だが決して卑下することはない。あのヒマラヤすら、かつては海底にあったのだから。
(続くのだ)